辛く困難な中で希望しか見えない映画「PLAN75」

2022年6月公開のドラマ昨品です。


あらすじ
75歳以上が自らの生死を選択できる<プラン75>。
夫と死別してひとりで慎ましく暮らす、角谷ミチ(倍賞千恵子)は78歳。ある日、高齢を理由にホテルの客室清掃の仕事を突然解雇される。住む場所をも失いそうになった彼女は<プラン75>の申請を検討し始める。一方、市役所の<プラン75>の申請窓口で働くヒロム、死を選んだお年寄りに“その日”が来る直前までサポートするコールセンタースタッフの瑶子(河合優実)は、このシステムの存在に強い疑問を抱いていく。また、フィリピンから単身来日した介護職のマリア(ステファニー・アリアン)は幼い娘の手術費用を稼ぐため、より高給の<プラン75>関連施設に転職。利用者の遺品処理など、複雑な思いを抱えて作業に勤しむ日々を送る。果たして、<プラン75>に翻弄される人々が最後に見出した答えとは―――。

公式サイトより

先日観た「ベイビーブローカー」もそうだったように、この映画を語るのは本当に難しいです。

ただひとつ言えることは、この映画、本当に、とても、よかった。とても、よかったです。
特にラストシーンは、私の映画観覧史上ナンバーワンかもしれません。

主演が賠賞千恵子さんだったというのも大きいかもしれない。それくらい倍賞さんの演技が非常に素晴らしかった!

75歳以上が自らの生死を選択できる<プラン75>という制度。
ショッキングな題材だとは思うのですが、ここまで世界が混沌としていると、近い将来有り得そうなことだと思ってしまうし、本音を言うと、私もこんな制度があったらいいなと考えたことがあります。

万が一、自分が働けなくなってしまったとして、楽しみも何もなく、ただただ「生きているだけ」という毎日が続くのならば、誰にも迷惑をかけずに苦しむことなくこの世から ”さよなら” できるのなら、そうしたいな…と。

だから日本では認められていない ”安楽死” の制度も、何故ダメなんだろう?と思ったこともあるのです。

その考えは一切無くなった、と言ったら正直嘘になるけれど、自分事ではなくて ”誰か” だったり ”社会” だったり ”世界”だったり、俯瞰して見る立場になってみると、やっぱりそんな制度って何か違うなって思うんです。

この映画って今の社会の「生産性」とか「価値」というものが浮き彫りになっている気がするのですが、今の私は「生産性ってそんなに大事なものなのだろうか?」と思うんですよね。

いや、ここ最近になって思うようになりました。

ある時ふと「お金」を追いかけている人生がつまらなくなったからかもしれません。

それまでの私は、それこそが自分の生きる原動力でした。
でもね、突然「それじゃなくね?」って気付いちゃったんですよね。

そりゃもちろん、お金はあった方が良いに決まっているし、自分のやりたいことの実現性も高まる。だけど、それを生活の軸にするのってどうなの?お金やモノに執着する人生ってどうなの?

そんな風に思い始めたんですよね。

少し前にこんな記事を書いたのですが、

「死ぬときは何も持っていけないんだぜ」
本当にその通りだと、今は強く感じます。

今は ”人生100年時代” なんて言われていますが、長くても100年という時間は、本当にあっという間。人は嫌でも死に向かって生きていく。

そのあっという間の人生の中で、お金やモノに縛られて生きていたら、最期に何を思う?

そう考えると、やっぱり私は色々なことを「経験」したいなって思います。
そして、経験して感じていくことこそが、この世に生まれた理由なんじゃないかと思うのです。

色々な説がありますが、私は「魂は存在する」という説を信じています。
そして、魂が肉体に宿ってこの世界に生まれた理由は「地球人生を体験するため」というのも間違いではない気がしています。だから、亡くなったとしても魂と体験は残る。それを持ってあっちの世界に行く。やっぱりお金やモノはあっちには持っていけないし、それは何の意味も為さない…。

なので、例え高齢化社会が進んで2人に1人が老人になったとしても、そうした社会の中で考えて工夫して体感していくことに価値が生まれるのではないか。例え物理的な生産性を生むことのできない人がいたとしても、そういった方たちが与えてくれる目に見えない生産性はたくさん生まれるのではないか。

・・・実際にそういった経験をしていないので、これはただの偽善になってしまうかもしれません。
でもね、いつか母親を介護することになった時のことを考えると、不思議と以前よりもっと前向きに考えられるようになったんですよね。

この映画では、高齢者にまるで価値が無いような世の中が描かれています。

働き場所を失って友人や住む場所も失って、自分の価値すらも見失ってしまった主人公のミチさんが、ついに<プラン75>の申請を行うのです。(それまでの間に、働き場所や住む場所を懸命に探すミチさんの姿は涙無くしては見られない)

はてさて「価値」とは何でしょう?

心理学では「無価値観」という心理が人を苦しめると言います。
私も大いに苦しめられたので、その心情はよくわかります。

でも、「価値」って存在するのでしょうか?
誰が決めるのでしょうか?

監督の早川千絵さんがインタビューで、こんなことを答えています。


私たちは今、“生きる意味”やら“生きる価値”なんてことについて、いちいち説明を求められるような世の中に生きています。自分のことは自分で責任を取るべきという社会の空気に多くの人が追いつめられ、「助けて」と言葉にすることすらためらわれる。「人に迷惑をかけてはいけない」と子供の頃から教えこまれて育った私たちは、人が無条件に助け合うことが人間として当たり前の姿であるということを忘れてしまっているのかもしれません。
この映画は、経済的合理性を優先し、人の痛みへの想像力を欠く昨今の社会に対する憤りに突き動かされて生まれました。倍賞千恵子さん演じるミチという女性の姿を通して、人が生きることを全肯定する。そんな映画にしたいと思っています。

https://natalie.mu/eiga/news/463229

人が生きることを全肯定する。

自分が生きることを全肯定する。

みんながみんな、そんな風に思えるようになったら、どんな世界になるんだろう。

競争や対立のある現実しか知らないから、そんな平和過ぎる世の中は退屈なんじゃないかって思ったりも正直する…だけど、それが当たり前の世界で42年も生きてきたから、そんな風に思うだけで、生まれた時から平和しかない世界だったら、それはそれで何の疑問も持たずに生きているに違いないよね。

2020年あたりから「風の時代」なんて言葉が流行りだして、これまでの物質至上主義(地の時代)から、精神的な豊かさに主軸が変わってきているとも言われています。

こういったこれまでの価値観に疑問を問いかけるような映画が発信され、注目されるようになってきたということは、やっぱり集合無意識の中でも変化が起きてて「風の時代」に本格的に突入し始めたのかもしれないと、「風の時代」の信憑性(?)を感じました。

※ネタバレあり
いよいよミチさんが<プラン75>を迎え入れる当日、朝のシーンから始まります。
ここもね、すごーく印象的なシーンなんです。朝起床して、布団の中でミチさんは朝日に映し出された自分の手を見つめるんですね。

私の勝手な妄想ですが、たぶんミチさんは「生きている」ということを、確認と実感をしていたのではないかと思うのです。人って自分を確認する時って何故か手を見ませんか?

※気になって調べてみたら、亡くなる前に手の平をじっと見る『手鏡現象』というものがあることを知りました (; ゚゚) 、ミチさんはその逆で手の甲・・・を見ていたので、更に感慨深くなりました(余談)。

その後、きちんと身支度を整えて、ミチさんはバスに乗って<プラン75>の会場まで向かうのですが、その間、目に映る景色がどれもとても眩しくキラキラしているんですよね。外でキャッキャと遊ぶ子供たちの姿。バスの窓から見える木々や陽の光たち…

たぶんミチさんは、これまで感じたことのないほどの日常の美しさ自然の美しさを感じていたのではないかと思うのです。もう二度と見ることのできない景色。感じることのできない空気。そんなものをミチさんは強く受け取っていたんじゃないかなって。

そして、もう既にこの時点で人が生きることを全肯定していたのではないでしょうか。

何も生み出さなくていい。意味なんてなくたっていい。ただ生きているだけでいい。それだけでそれ以上でもそれ以下でもない。私たちは生かされている。そんな悟りの境地のような感覚がミチさんに芽生えていたんじゃないかって、そんな風に思うのです。

そして最終的にミチさんは、会場を逃げ出して生きることを選択します。

山道をぜいぜい言いながら歩いて登っていきます。ここがラストシーンです。
冒頭の写真にある、ものすごく美しいラストシーンです。これが全てを物語っています。

実はこのラストシーン、向い風が強く吹く予定だったそうなのですが、全然風が吹かなかったそうです。すっごく静かで、皆が見とれてしまうほどの綺麗な夕焼けだけが輝いていて、監督も時間を忘れてしまうくらいカメラを長回ししていたんですって。

当初は風に向かって歩いていくミチさんが、これからの困難に立ち向かっていく様子を描きたかったようなのですが、やっぱり神様っているのでしょうか。一切風を起こさなかったのには、何か理由がある気がしてなりません。

話が色々飛び飛びになってしまいますが(それだけ語り尽くしたい)、よく「未来の子供たちへ」とか「未来を担う子供たちのために」とか聞きますよね。

それになんだかちょっと違和感を感じる時もあるのです。

もちろん環境問題とか資源の問題とか、リアルに未来の事を考えないといけないことはたくさんあると思うし、「未来の子供たち」と言っている方々も、そういった意図があるんだと思います。

でも時に、その言葉だけがひとり歩きしてしまっていることもあるのかなって思って、未来ももちろん大事だけれど、今を生きているのは子供だけでも大人だけでもなくって、誰しも一緒にこの世界をつくっているわけだし、それこそ価値なんてものはやっぱり同じだと思うんですよね、

この映画を観て、今まで秘かに思っていたことが自分の中で明確になりました。
私、誰もが「生まれてきて良かった!」と思って最期を迎えてほしいんですよね。
それは私自身の人生の最大の目標でもあります。

やっぱり、終わりよければ全て良しというか、最期こそ人生の集大成じゃないですか。
最期に人生の全てが集約される。

だから、その時にできるだけ多くの人に苦しみで終えてほしくないと思っちゃうんですよね。
特に高齢者の方々は、長い人生で苦しいこと楽しいこと、幸せ不幸せ、いろんなことを経験して何だかんだで誰もが頑張って生きてこられたわけですよ。その先輩方のおかげで今の私も存在している。

だから、「生まれてきて良かった!」と思って卒業してほしい。そんなエゴがあるのです。

勝手な結論としては、目に見えるリアルな社会は若者たちにお任せして、大人たちはそれこそお金やモノじゃない目に見えない価値を追求していくってのが、世界のバランス的にも個々人たちの人生にとっても素敵なことなんじゃないでしょうか ( ¨̮ )💛

だから、会社も政治も古株のご隠居はアリ!(急に)
そして、大人たちの学校がもっともっと増えたらいい!(急に)

それこそ、高齢者さんのための『終活の学校』ってのもあったらいいんじゃないかなって思うんですよね。個人的には心理学とか仏教とか形而上学の授業があったらいいなって思う。

”終活” っていうのは、ただこの3次元からの卒業であって、次のステージの始まりでもあるわけだから、そういうことを学べたら、尚更ミチさんのように今の世界が美しく感じられるだろうし、肉体を失うことへの恐怖に踊らされることもなくなる気がするのです。

”病は気から” という視点からも、心理を学んで心を癒すことで健康が蘇るかもしれない。そうしたら気付いたら人生150年時代とかになってたりするかもしれないけど、みんなが自分を大事に生きるようになったら、他人も自然も大事にできる世界になって、すごく平和で画期的な地球の存続の方法も見つかるんじゃないかなぁ…って、ちょっと話がぶっ飛び過ぎかしら。

というわけで収集つかなくなるくらい語りたくなる映画「PLAN75」の感想でした。

観ていて本当に自然と涙が溢れて仕方のない作品ですが、私は希望しかない映画だと思いました。

全てはラストシーンで賠賞さん演じるミチさんが教えてくれます。(もちろん他のキャストの方々も最高に素晴らしいですよ!)

生まれて初めて「もう一度映画館で観たい」と思った作品でした。

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