とらこ、純粋経験と出会う。

最近、こちらの本を読み始めました。
と言っても相変わらず本の読めない女は、気付いたら解説動画を見ている始末です。

西田幾多郎(にしだきたろう)さんご存じですか?
明治から昭和にかけて活動されていた哲学者の方です。日本で初めて哲学書を出版されたとも言われています。その哲学書というのが『善の研究』。

禅などの東洋思想や西洋の最新思潮と格闘しながら、日本だけのオリジナルの哲学を独力で築き上げようとした人がいました。西田幾多郎(1870-1945)。彼のデビュー作にして代表作が「善の研究」です。- 100分de名著より

私がこの方を知ったのは本当つい最近でして、私が密かにこっそり少しずつ勉強している「ヌーソロジー」というとーっても難しい思想?学問?の解説者さんが紹介していたことがきっかけです。「西田学問」て何だろう?でもとっても気になる!と思って購入してみたものの、超絶難しい(꒪ω꒪υ) ヌーソロジーと併せてこれを理解するまでには相当な時間を費やすことになるでしょう。

だけど、読んだり解説を聴いたりしていると不思議とやっぱり繋がっていくんですよね。必要な時に必要なものがちゃんと現れてくれるんだなぁ。何がどう繋がったかと言うと、それは本書の第一章の『純粋経験』という考えから始まります。

前回の記事で「星の旅人たち」という映画について触れたのですが、目的があるないは二の次になっている今この瞬間。本能のようなもの。そこに触れると感動してしまうのです。ということを書いていました。この本の第一章には、私がなぜそこに感動するのかその答えのヒントが書かれてありました。

早速ですが、西田先生は第一章「純粋経験」についてこう述べています。

経験するというのは事実をそのまま知るの意である。まったく自己の細工を棄てて、事実に従うて知るのである。(中略)例えば、色を見、音を聞く刹那、この色、この音は何であるという判断すら加わらない前をいうのである。(中略)自己の意識状態を直下に経験した時、未だ主もなく客もない、知識とその対象とが全く同一している。これが経験の最醇さいじゅん(純粋)なるものである。

なんとも難しい言い回しですが、私は「何の解釈も加えていない状態」のことなのかなと考えます。例えばキレイな空を目にした時にハッとする感覚は純粋経験で「映えチャンス!」と携帯を探した瞬間に純粋経験ではなくなる。みたいな。確かにすんごいキレイな空とか景色とか目の前に現れると、すうっとその世界に入り込んで溶け込んでしまうような時ってありますよね。正に合一している状態だと思います。

他にも、友人が体験したとても悲しい話や楽しい話を聴いてめちゃんこ心が震えた時って、友人と一体化したかのような感覚になって言葉が出ない時がある。でも何か言葉を発信した瞬間に、私という主観や何かのエゴが入り込んで急に野暮ったくなってしまう。

「星の旅人たち」で息子を亡くしたお父さんが、警察官に「なぜ道を歩く気に?」と訊かれ、「息子のためかな」と答えていたけれど本当の答えではない気がした。本当は理由なんて自分でもわかっていなくて、聞かれたから敢えて選んだ言葉だったように思えた。お父さんは純粋経験によって動かされていたんだと思う。

写真家の中平卓馬さんが、主観的なイメージを一切棄てて「あるがままの世界」を撮りたかったのは、ただただ何の混じりけもない純粋なそれを撮りたかったのかもしれない。

あるがままの世界こそが純粋経験…

中平卓馬《無題 #444》東京国立近代美術館

ここで突然ですが、そもそも善とは何か?善と純粋経験とはどんな関係性があるのでしょうか?

第9章 善(活動説)にこのように書かれています。

善とは自己の発展完成であるということができる。すなわち我々の精神が種々の能力を発展し円満なる発達を遂げるのが最上の善である。竹は竹、松は松と各自その天賦(才能)を十分に発揮するように、人間が人間の天性自然を発揮するのが人間の善である。(中略)善の概念は美の概念として近接してくる。花が花の本性を現じたる時最も美なるが如く、人間が人間の本性を現じた時は美の頂点に達するのである。善はすなわち美である。たといその行為そのものは大なる人性の要求から見てなんらの価値なきものであっても、その行為が真にその人の天性より出でたる自然の行為であった時には一種の美徳を惹くように、道徳上においても一種寛容の情を生ずるのである。(中略)すなわち、自己の真実性と一致するのが最上の善ということになる。

うん!難しいね( ◑ٹ◐)

簡単に要約すると、善とは個々人がそれぞれもった才能や素質を発揮させることであり、それが例え生産性がないことだとしても、作為や思惟的思惑のない自然体で現れたものであれば、それは最上級に美しくそして善そのものである。ってことかなぁと思います。純粋経験を素直に純粋に経験する。私が目的があるないは二の次になっている今この瞬間。に感動を覚えるのは、そういった美に触れたことによる反応なのだと気付きました。何の思惑もなく本能的に動かされる瞬間は純粋経験を純粋に経験している瞬間(=善)なのだと思います。

また、人が自然に触れて感動したり元気になるのは、山や海や草原たちが善そのものだからなんだと思いました。それらを「自然」と呼んでいることが答えですよね。映画「星の旅人たち」のように、人は自分自身を知りたくて旅に出る。意識的だろうが無意識であろが根っこにある欲求は変わらない。自然に触れて我を忘れて歩きながら自然と合一していく。自然と一体になることで究極にある自己の真実性を取り戻していく。一度ゼロになる。そこで芽吹いた内なる目的に気付く。

ところでつい最近まで私は「全ての実在は私がつくっている」と思っており、果てしない迷宮に入り込んでしまっていたのですが、いろいろ調べていくうちにその考えは『独我論(唯我論)』であったということを知りました。

独我論・・・自分にとって存在していると確信できるのは自分の精神だけであり、それ以外のあらゆるものの存在やそれに関する知識・認識は信用できないとする考え

だから堂々と「世界は自分がつくってる!」と言える自分がいたし、自分次第で現象世界はどうにでもなると思ってた。だけどその反面、もしかしたら私を取り巻く世界はただの幻想で儚くて、他人と言う存在も私が創作したものなのかもしれない。なんてことを想像して虚しさを感じたりもした。いやしかし、なんかそれもしっくりこない…

と、そんな中で『認識の反転』を説くヌーソロジーに無性に惹かれていって、西田哲学なるものに出会い、今ここにいるわけです。

昨今では「引き寄せの法則」が当たり前に私たちの世界に浸透してきており、エネルギーが先で現象は後!という考えがそれに付随していると思うのですが、ヌーソロジーや西田哲学は言わばその逆で、現象(経験)が先にありそれと同時多発的に我々のエネルギーが動かされているという考え方なんですね(たぶん)。ヌーソロジーのHPでは「僕たち人間にとって世界はまず”与えられる”ことによって存在している」と書かれています。西田さんの有名な言葉にも「個人あって経験あるにあらず、経験あって個人あるのである。個人的区別よりも経験が根本的であるという考えから独我論を脱することが出来た。」というのがあります。

純粋経験とは、与えられた世界・経験そのもののこと。料理だったらただの素材であり何の調理も味付けもされていない状態のこと。調理する側される側という役割すらももっていない。西田哲学ではこれを「主客未分(主体と客体が別れていない状態)」と呼んでいて、主客未分=純粋経験だと言っています。

主体と客体が別れていない状態と聞いて思い浮かぶのは、ホール・ブレインを書いたジル・ボルト・テイラー博士の体験です。彼女は37歳の時、左脳の脳出血により右脳しか機能しないという状況に見舞われました。個としての感覚を失い自分と空間との境界線すらもわからなくなったのだそうです。でも同時にこの上ない幸福感に包まれていた…と語っています。私は幸い大きな病気にかかったことはないのですが、催眠療法を受けた時に、完全にイメージの世界に溶け込んでいってとてつもない多幸感を感じた経験があります。それこそリアルとイメージの境界線なんて無かった。それも西田哲学では純粋経験になるのかな。

本書の第一章に戻ります。
いかなる精神現象が純粋経験の事実であるか。感覚や知覚がこれに属することは誰も異論あるまい。しかし、余はすべての精神現象がこの形において現れるものであると信ずる。(中略)過去と感ずるのも現在の感情である。(中略)しからば、情意の現象は如何とというに、快・不快の感情現在意識であることはいうまでもなく、意志においても、その目的は未来にあるにせよ、我々はいつもこれを現在の欲望として感ずるのである。

心理学の師匠がよく「感情はうんこ」と言っていたことを思い出しましたw。自然現象であり誰にも止められない。純粋経験による精神現象というのは自然に出てくる感情であって、その感情は感覚や知覚から生まれるもの。それが例え過去の経験によって植え付けられた神経の反応であったとしても、未来を予測して感じている感覚であっても、それを捕えているのは今この瞬間の私であるから、それを分析しない限りは純粋経験(&精神現象)であり続ける。なので、どんなに不快な感情だとしてもその瞬間は純粋経験。だけどそれを分析したりジャッジした時点でエゴに変換される…

先ほどお話した催眠療法での体験時も、とてつもなく悲しい情意が溢れてきた瞬間がありました。だけど、そこにひたすら没頭し続けてジャッジすることは一切なかった。没頭しているけれど全てを見渡している感覚もあった。今思い返してみても不思議で純度の高い経験だったなぁと思います。

今、巷では ”ワンネス” とか ”ゼロポイントフィールド” とか ”超意識領域” とか ”アカシックレコード” とか様々なワードが飛び交っていますが、もしかしたら “純粋経験” もそれと同じなのかもしれません。そしてそれは決して特別なことじゃなくて、誰しもが毎日当たり前に体験していること。

朝起きてまどろみの中に感じている部屋の感覚とか、通勤時に出会う散歩中のワンコとか野良猫とか、満員電車で触れる人の熱気とか、窓をビュンビュン過ぎ去っていく外の景色とか、会社で会うご機嫌なおじさん不機嫌なおじさん、いつものコンビニの可愛い外国人のあの子、ディスクがいっぱいで反応の遅いパソコン、お歳暮のゼリーや効きすぎる空調。夕暮れ時のピンクの空…

毎日毎秒毎瞬、私たちは純粋経験を体験している。つまり、いつでもワンネスの中にいて、いつでもアカシックレコードに繋がっている。それに価値や意味付けをしない限りは…

いや~難解すぎるよ西田先生!でも、これまでの概念をぶっ壊してくれる期待感が半端ないです。これからもまだまだ西田哲学の世界に入り込んでいきたいと思います。

◎今回お世話になった参考動画

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