わたしたちはみんな星の旅人です。

2010年公開アメリカ・スペイン合作のヒューマンロードムービーです。

あらすじ
人生の”道”を見失った初老の男がひとり。アメリカ人眼科医のトム(マーティン・シーン)は、ひとり息子ダニエルの突然の訃報に、途方に暮れる。サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼の初日、嵐に巻き込まれ、 不慮の死を遂げたというのだ。果たして、ダニエルは何を想い、旅に出る決意をしたのか?トムはその真意に確かめるべく、亡き息子のバックパックを背にサンティアゴ・デ・コンポステーラへと旅立つ・・・。

「星の旅人たち」日本公式サイト

先日より始まった 夜な夜なアウトプット会。水無月の題材はこちらの映画を選びました。

目的地:本当のわたし” の地図を持って、ふらふらと道の真ん中を歩いている。ひだりの神さまが「こっちを歩きなさい」と言い、みぎの神さまが「こっちを歩きなさい」と言う。そんな脳内イメージが浮かんでは消えていく毎日を過ごしながら、ふと電車の中で『道』をいうキーワードが駆け巡り、そんなタイミングでこの作品に出会ったのでした。

※ネタバレあり
物語の冒頭、主人公の初老のお父さんは聖地巡礼の旅に向かった息子を亡くしてしまいます。そして彼の遺体を迎えにその地に向かい、そこで息子がどんな旅をしようとしていたのか知るのです。その夜、遺品となったリュックから数々の旅の写真と一緒に、自分と亡き妻との写真が入ったアルバムを見つけ、涙が溢れました。「ネパール、モロッコ、インド、パプアニューギニア、ヨーロッパ…行かなくちゃいけないんだ」。あの日の息子の姿が思い出されます…。そして涙をぬぐった後、夜も更けた頃にお願いをして息子を火葬してもらうのです。翌日、彼は息子の荷物を背負って聖地巡礼に旅立ちました。
遺灰を入れたリュックを背負って。

そこから個性豊かな仲間たちに出会い、旅の道中でいざこざがあったり様々なハプニングやトラブルに見舞われたり、仲間の旅の目的を知ることになったり、作品としても見どころは沢山あるのですが、私がいちばん印象に残っているのは、やっぱり主人公のお父さんが息子の荷物と対峙した、あの夜のシーン。

10年間のキャリアを捨てて旅を選んだ息子の気持ちを理解できなかった堅物の父が、写真を見つけて、あの日の息子の言葉を思い出し「息子の遺灰と一緒に巡礼の旅に出る」という道を選択したシーンです。

きっとあの夜を迎えるまでは、そんな選択があるなんてことすら本人は知らなかったでしょう。遺体を引き取り、一緒に故郷へ帰って妻と同じように葬儀を執り行うつもりだったのだと思います。だけれど、あの夜あの瞬間、その道がどこからともなく彼の中に生まれた。そして一片の迷いもなく彼は決めたのです。

旅の始まりの朝「なぜ道を歩く気に?」と問われ「息子のためかな」と答えるシーンがあります。質問をした警察官は「道は自分のためのもの」と返しました。

さてお父さんの旅の目的とは何だったのでしょう。そこに目的感は存在したのでしょうか。
それは私にはわかりません。だけど息子が辿るはずだった道を歩いてみようと決めた。「行かなくちゃいけないんだ」そんな声が聴こえるような気がします。

前回の記事で「目的感」や「確信する」ということについて私なりに考えてみましたが、なんでしょうね。思いもよらない事態に遭遇したときの人の心理というものは、否応なく私の心を震わせます。目的があるないは二の次になっている今この瞬間。本能のようなもの。そこに触れると感動してしまうのです。

人間には自由意思はなくこの世界は決定論である(すべて何らかの原因によってあらかじめ決められている)という考え方があって、この夜会でも「人を動かしているのは準備電位(※)じゃね?」という話もあったのですが、突発的に生まれる感情や意識というのは準備電位よりも先のような気がしたりしています。

※準備電位
人間が何か行動を起こす際、その行動の0.5秒ほど前に、頭頂付近で負の電位の脳波が発生することが知られています。これを運動準備電位と言います。(関学理系ナビサイト様より)

ちなみにこんな記事も発見。
「自由意志」は存在する(ただし、ほんの0.2秒間だけ)

いろいろ言うとりますが、今回の私の結論を先に言ってしまうと「なんやかんや言いましても、そういうのがええやん」です。

決定論だろうが自由意思だろうが、目的が明確だろうが不明確だろうが、身近な存在によって思いもよらない意識や感情が生まれて、そこから思いもよらない道が生まれて、気付いたら歩いている。そしてそこには迷いはない。頭じゃなくて心が勝手に動く。

そういうの、ええやん。

ちなみに、ふらふらと真ん中を歩いている私に囁いてくる神さまですが、左神も右神も私に「生き方」を示してくれているような気がします。『こうした方が願いが叶うよ。』『こうした方が軽やかに生きられるよ。』そんな感じでこっちを歩けこっちを歩けと囁いてくるのです。

だけど結局のところ、左も右も自分のエゴがつくり出している神さまなんですよね。様々な情報に踊らされて洗脳されて思い込まされて「そうした方がいいんだろう」と更なるエゴをつくり出している。

だから私は、エゴの枠を超えたところから突然やってくる何かに真理を感じてしまうのだと気付きました。もしかしたらそれは、あらかじめ決まっていた準備電位なのかもしれないけれど、その準備電位を指令している存在があるのかもしれないと思う今日この頃です。

最近アウトプット会では、そういう普段感知できない(と思い込んでいる?)存在について話が盛り上がることがあります。仲間たちはそれを 「大いなるミネ」「ビーカーの外の実験者」「高次元の存在」 などと呼んだりしているのですが( ..)φ 私も最近、自分は2つの存在でできているんじゃないかと思い始めています。私が感じているんだけれども私に感じさせている存在がいる。私に感じさせることで感じる体験をしている何か…

私が「本当のわたし」に出会いたいのは、そういった「何か」と融合したいからなのかもしれない。

それはなぜ…?
という目的感は否めないけど。笑

でも、私に感じさせることで感じる体験をしているってことは、その何かも目的を探しているのかもしません。そもそも本当は目的なんてないのかもしれないこの世界で、わたしと何かは目に見えないやりとりをしながら旅をしているんだなぁ。

映画の冒頭のシーンに、父子のこんなやりとりがあります。

「僕の道に賛成しなくていいけど、勝手に判断しないで」
「生き方は違うが私は今の人生を選んだ」
「人は人生を選べない。生きるだけ」

生きるだけ。

そう。生きるだけ。ただただ生きるだけしかできない。
左を歩いたって右を歩いたって真ん中を歩いたって。
どこを歩いたって生きてるだけ。

でも歩く場所で景色が変わる。
どっちが良い悪いじゃなくって、ただ歩いている場所が景色を見せてくれている。
景色は ”わたし” を教えてくれている。
景色こそ ”わたし”。

そんな風に思いました。

今、リアルなとらこが毎日見ている景色。いわゆる平凡な事務のお仕事。でも毎日必ず何かが起きて面白い。クーラーも無くて物置みたいな実家の部屋。散らかってまるで私の頭の中みたい。でも一人をゆっくり味わえる大切な空間。ウチのご当地キャラみたいなオカン。なんか頑張ってるからいい。姉…今はノーコメント。愛しいパートナー。いつもありがとう。いろんなコミュニティと仲間の皆さん。ありがたい空間と繋がり。大切。お互い気が向いたときに連絡を取り合う友人たち。いつまでも変わらない私の土台の一部たち。携帯パソコンyoutube。束縛しないで。でも好き。社会、満員電車、道ゆく人、コンビニ、鳥さんハトさん、散歩しているワンコと野良猫。毎日変わる空と雲。季節の移り変わりを運んでくれる風。加瀬亮様。可愛いK-POPアイドルの皆様。映画映画映画!時々アニメ。本は読めない。いつも忘れてしまう副業にしようとしてること。また忘れてた。

今、目の前には彼にもらった白いパソコンと赤いマグカップの中のアイスコーヒー。

これが、この世界がせんぶ、わたしです。

愛おしいよ。ありがとう。

ふと、アウトプット会の仲間のひとりが「ただ観察する」と言っていたことを思い出しました。確かゴッホだかピカソだかも、そうして何てことない一脚の椅子をただじーっと何時間も見続けていたという逸話を聞いたことがあります。また、私は中平卓馬さんという記憶を失った写真家さんのことを思い出しました。

彼は自身の身に起きた出来事や自身の思考と同時に、写真という世界を追求していく中で、最終的に「事物が事物であることを明確化する事だけで成立する」ような「植物図鑑」としての写真というものに辿り着いたそうです。


それまでの中平の写真を特徴づけていたポエジーやイメージの世界が自己否定され、「事物が事物であることを明確化する事だけで成立する」ような「植物図鑑」としての写真が宣言される。中平は世界を自らの主観的なイメージで染め上げるのではなく、カラー写真によるカタログの写真のような羅列こそが「あるがままの世界」を顕現させうる来たるべき写真であるという。

artscapeより

中平卓馬さんのことは、昨年「カメラになった男」という映画を観て知り、なぜ主観を捨てた写真を撮ろうと思ったのか興味が湧いて「なぜ、植物図鑑か」という本も購入してみたのですが(読んでない)1年越しに彼の意図がなんとなくなんとなく、わかった気がします。

あるがままの世界を見る。

相変わらず話が飛び散らかしておりますが、映画「星の旅人たち」よかったです(´ε` )

物語の後半、みんなで目的地のサンティアゴ大聖堂に辿り着くのですが、大聖堂内のボタフメイロという世界一大きい大香炉が空中を舞うシーンは非常に圧巻で神聖でした。実際に行われている巡礼達成の儀式だそうです。もちろん映画の要となっている「サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼(※)」も実存していて1,000年の歴史があるんだとか。ちなみに和歌山県の熊野古道と姉妹道提携を締結してるんだって!

※キリスト教の聖地であるスペイン、ガリシア州のサンティアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼路。

また、これもネタバレですが、お父さんが仲間たちと聖地を目指して歩いているポイントポイントに、亡くなった息子さんが登場するんですよね。大聖堂では大香炉を操作する僧侶のひとりになっていました。最後に遺灰を海にまくシーンにも登場して父子で会話をするのですが、父娘ではまたちょっと違うであろう雰囲気がこれまた良かった。

「お前を迎えに来たが、持ち帰るものはないな」
「あるさ」

「道は自分のためのもの」だけど、それだけじゃないのかもしれない。一人で歩いているつもりだけどそうじゃないのかもしれない。何も持ってないようで持っているのかもしれない。

すべては今見ている景色が教えてくれています。

本当の本当の最後のシーンがこれまた良い!是非とも実際に作品を観てみてみてね(^^)

ところで、監督であり息子役として出演しているエミリオ・エステヴェスさんですが、なんとお父さん役のマーティン・シーンさんは実のお父さんなんだって!どうりで似てると思った~!(チャーリーシーンのお父さんでもある)

マーティン・シーンさんはスペイン人の父とアイルランド人の母の元に生まれたのだけど、実は両親ともに移民だそうでして、若き日の彼は大変苦労されたそうです。差別の目を避けるために本名のラモン・エステヴェスから今の芸名を使うことにしたのだけど、彼はそれを「人生の後悔」とテレビで伝えています。そして芸名を使うことなくエステヴェスの姓を名乗って芸能活動を続けてきた息子さんに、とても感謝しているのだそうです。(海外番組「発見!ファミリー・ルーツ」より)

そんな背景をもつ親子による親子の愛のロードムービー。

彼らもそして私たちもみんな星の旅人たちです。

このシーン好き。

おやすみなさい( ´ ▽ ` )ノ

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