悟りの後は同じようで違う世俗に帰るのだ

空前絶後の くうブーム!

まだまだ続いております。

くうの思想に関する動画は色々見てみましたが、最終的に私の敬愛する立花大敬さんの動画に戻ってきたよ。

以前に一度視聴したものの右から左へスルーしていた回があって、ふともう一度見てみたらものすごーく面白かったので皆様にもシェアしたいと思います。

(いつも無料で視聴しまくってすみません!)

この回のお話は十牛図じゅうぎゅうずという中国の宋の時代の禅の入門書のことだそうです。

「禅のお坊さんのために作られたマニュアルなので、僕たちにもそのまま通用できるというわけではないんですよね」と大敬さんは仰っています。

私レベルになってしまうと「そもそも禅って何なの?」というところから始まるわけで、その答えはこちらになります。


禅は、精神を統一して真理を追究するという意味のサンスクリット語を音訳した「禅那」(ぜんな)の略で、坐禅修行をする禅宗をさす言葉です。
禅の祖は菩提達磨ぼだいだるま(中国禅宗の開祖とされているインド人仏教僧)です。
鎌倉時代から室町時代の日本に禅宗が伝わると、その教えは武士から庶民階級にまで広がり、室町幕府は禅宗を保護・統制するようになります。修行や思想はもとより、水墨画や書、作庭など禅にもとづいた文化芸術が盛んになり、やがて茶道へとつながっていきます。このようにして禅は日本文化の骨格をも形成したのです。

日本文化の入り口マガジン
「禅とは何か?」

え(°д°)? 達磨ってあのだるまさんのこと???


だるまは、サンスクリット語「Bodhi-dharma」の音写「菩提達磨」の略で「dharma」の原義は「法」を意味する。手足のない玩具(置物)としての「だるま」が作られたのは、菩提達磨が座禅によって手足が腐ったという伝説からといわれる。

語源由来辞典

だそうです(°д°) 全然知らなかった!
41歳なのに!

いや~仏教にしかり禅にしかりだるまさんしかり、もともとは中国から伝来されたものだったんですねぇ。

で、禅の入門書の『十牛図じゅうぎゅうず』なのですが、禅の修行(悟り)の10段階を表した10枚の絵と詩のことだそうです。絵には1人の男の子と1頭の牛が描かれています。(wikipediaより拝借↓)

牛さんが何を示すかというと ”本当のじぶん”

十牛図じゅうぎゅうず』というのは、本当のじぶんを探す旅について描かれたものと言われています。

「じぶん探し」って一時期、流行言葉になりましたよね。「バックパッカー」も流行ったし、そしてそんな人たちのことに対して「青い鳥症候群」と皮肉めいたことも言われたりしていたなぁ。当時20前後だった私は、ものすごくインドに行きたかったことを思い出します。何度かチャンスもあったのだけど、どうしても勇気が無くて行けなかったんだなぁ。。。

話は戻って『十牛図じゅうぎゅうず』に描かれた禅の修行(本当のじぶんを探す旅)の10段階というのがこちら。

1)尋牛じんぎゅう・・・牛を探しに行く
2)見跡けんせき・・・牛の足跡を見つける
3)見牛けんぎゅう・・・牛を発見する
4)得牛とくぎゅう・・・牛を捕まえる
5)牧牛ぼくぎゅう・・・牛と一体化する
6)騎牛帰家きぎゅうきか・・・牛と仲良くなる
7)忘牛存人ぼうぎゅうぞんにん・・・牛を忘れる
8)人牛倶忘にんぎゅうぐぼう・・・牛もじぶんも忘れる
9)返本還源へんぽんげんげん・・・最初に戻る
10)入鄽垂手にってんすいしゅ・・・人を育てていく

詳しい内容は、こちら様のサイトが非常にわかりやすかったよ!

十牛図〜悟りの境地に至るプロセスをわかりやすく解説
『十牛図(じゅうぎゅうず)』とは、人が悟りの境地に至るまでの段階を10枚の絵で表したものです。

大敬さん曰く、いわゆる ”悟り” というのは 5)牧牛ぼくぎゅう(牛と一体化する までのことで、7)忘牛存人ぼうぎゅうぞんにん からはそれを自分のものにしていく段階に入るのだそうです。

7)忘牛存人ぼうぎゅうぞんにん・・・牛を忘れるってのが、なんだかいいですよね~

ネットでも色々な解釈があり、とても興味深いです。


家にもどり牛のことも忘れること。悟りは逃げたのではなく修行者の中にあることに気づく。 (BIZTEL様

もともと私というものなど存在しておらず、この身も私のものではなく、宇宙の法則(諸法)に従うのみであることを体得した。(狩猟と禅活を愛する弁護士の命のブログ様

牛は、追いかける目標でもあり、本来の自分の姿でもあります。そして、牛は存在しないのではなく、かくれていただけです。(禅のこみち―萬福寺様

もう悟りを開いてしまったので、「悟りを開こう」とか、そういう考えがなくなって自然な状態になったわけです(YONEYAMADOU’S GALLERY様

ずっと追い求めていたものが、実はすぐ傍にあった。既にあった。
そんな感じでしょかね(^^)

例えば、価値とか。意味とか。自由とか。愛とか・・・?

そして、8)人牛倶忘じんぎゅうぐぼう がね!まさにね!

くう

大きな円で表されています。

弾における書画のひとつで ”円相” と言うんだって。


禅において、円相は、古来は空中に杖などで円圏を描いて表されたりしてきた。そして、悟りや真理、宇宙全体、そして平等性を象徴的に表現したものとされる。 見る人の心を映し出す円でもあり、解釈は見る人に任せられる。

teamLab
https://www.teamlab.art/jp/w/enso/

7)で牛さんを忘れてしまい、8)では自分さえも忘れてしまう。

7)で、価値とか意味とか自由とか愛とか、なかったけど実は既にそこにあったことに気付いた。だけど、そもそもそんなことを考えていた自分すら、もはやどうでもよくなってしまったってことなのかもしれません。

問題とか悩みとか、そんなものは実はなかったのかもしれない。

なんだかまるで、世界や宇宙に溶け込んでしまうような、そんな概念ですね。
いかに自分が小さな箱の中であーだこーだやっているのか、わかりますね~

そこを飛び越えた向こう側に「くう」の世界があるんだろうなぁ。

動画の中で大敬さんは何度も「人それぞれの進化の歩みがあるので、これにはスケールが合わないから間違った道だとは思わないでください」と言っています。あくまでも「歩みの標準形」だと。そして、また「この10段階というのは人をランク付けするものではない」とも仰っています。

確かにそう思わないと、やってられませんわな!
人間、小さな箱であーだこーだやっちゃう生き物だもの。

問題ひとつにしたって、自分だけでなく周りの人たちとの関わり合いがあるわけだから、自分だけ悟りの境地に向かうというのも、なかなか難しいお話ですわよね。自分軸が大事と言われる昨今ですが、そう簡単に一筋縄ではいかんのですよね。

でもねでもね、この『十牛図じゅうぎゅうず』のお話は、そんな小さな箱の中での小さな小さな出来事に当てはめることもできちゃうんですよね。大敬さんも「自分の体験に当てはめて、どこの段階にいるのか考えてみてね」と仰っています。

私も自分事について当てはめてみました。
いろいろあるのだけど、最近 ”抜けた” 感覚があるダイエットについて。

ちっさ!全く参考になりませんなぁ!すみません!
でも、結構このストーリーのままでございまして、昨年までは「痩せたい痩せたい」と毎日のように思っていて、食べるのにもいちいちカロリー気にしたり、運動しても続かない自分を責めたりしていたんですけど、ある時からどーでも良くなってしまって、ダイエットのことを考えることすら辞めたんですよね。

食べたいときに食べたいもの食べて、入らなくなった洋服は着なければいいし、運動も面倒な時は無理してやらないようになりました(そしてそのまま何も運動しないで今に至る)。

そしたら不思議なものですよね~。痩せたんですよ。
いや、痩せたのか?測ってないからわからないのですが、入らなくなった洋服がいつの間にか入るようになったのです。

同時進行で、ファッションにもあんまり興味が無くなってしまって、全く洋服を買わなくなってしまったし、美容院にも1年以上行っておらず、自分でハサミでチョキチョキしてしまう始末で、パートナーからは「走れ!」と時々言われていますがw、なんかラクチンに生きています(´ε` )

脳科学とか引き寄せの法則とかでも「願えば願うほど脳は素直に ”無い” と認識して、そのまま ”無い” 世界を現実に映し出してしまう」と言いますよね。だから私も「痩せたい痩せたい」=「痩せられない痩せられない」と呪文をかけていたのかもしれません(´ε`;)

このところは、運動不足が祟ってか体中がカチコチになっちゃって、そろそろまた運動再開しようと思っているのですが、死活問題にしていた頃とマインドが変わって、自然と運動したいな~体動かしたいな~と、そんな風に思えています。

これがもしかしたら 9)返本還源へんぽんげんげん なのかも?

一見、何も変わっていないようだけど、ありのままの自分で自然とナチュラルに「運動したい」と思えるじぶん。外側の世界は何も変わってなくても、内側のじぶんが自然体でいられてる。

カウンセリングでも「問題が問題でなくなった時が解決」とよく聞きます。
周りの人が「大丈夫?」と心配される状況だとしても、自分が大丈夫だったら大丈夫なものですよね。

師匠の力を借りましょう↓


【感情を癒す】ということ、【心の在り方を変える】ことが大切なのです。
今起きてる問題の表面ではなく、その中の心を見ていく・・・。その意識だけでも変化を感じられることも少なくないと思います。そして、その心の在り方が変わっていくと「状況は変わってないのに心は平穏」とか「なぜか知らないけれど希望が持てるようになった」とか「大丈夫って気がする」みたいな感じが得られます。
「考え方」ではなく「心の在り方」というのがポイントですね。そして、のど元過ぎれば・・・で「問題」があったことすら「忘却」するのです。この「忘却」を持って私は「問題解決」だと思っています。「ああ、そんなことがあったよね」と懐かしい気持ちがするくらいの場所です。私はいつもそこを目指していくのです。

根本裕幸オフィシャルブログ
https://nemotohiroyuki.jp/everyday-psychology/12084

私は似非ポジティブ時代、ずっと自分の心と向き合うことから逃げていました。

カウンセラーの修業中も「なんでわざわざネガティブな感情と向き合う必要があるんだろう?」と疑問にすら感じていました。

だからきっと生きづらさから解放されるのに、長いことかかっちゃったんですね。

生きづらさとか悩みとか問題は、外側からやってくるものではなくて、自分の内側がつくり出しているもの。そこに飛び込んで向き合う決心をしたときから、きっと『十牛図じゅうぎゅうず』の旅が始まるんだろうと思います。

ちなみに最後の 10)入鄽垂手にってんすいしゅ・・・人を育てていく ですが、こんな感じ。

(°д°)え

ずいぶんとワガママボディになられて…。
手に持っているのは仏教で禁止されているお酒ですって。

ついつい、あの悟りの旅は何だったのー?
と言いたくなるところですが、これには深い意味がありました。


悟りを開いたとしても、そこに止まっていては無益。再び世俗の世界に入り、人々に安らぎを与え、悟りへ導く必要がある。(瑞興寺様

原初の世界を知ったなら、そこに留まるのではなく、そこで知り得たことをもとに迷いのなかにいる人を導くことを最後とする。自分一人のことで終わるなと。悟りを開いたとか、仏になったということで満足するなと。人と接して、人の世を生きて、苦楽をともにして生きていくことが、十牛図におけるラストーシーンというわけです。(禅の視点- life -様

悟りの世界をひけらかすわけでもなく偉そぶるわけでもなく、一般の人たちとただ酒を飲み笑って泣いて過ごす。

素敵ですね(Ŏ艸Ŏ)

そしてそういう人っていますよね。何かの肩書があるわけでもなく、いわゆる普通の人なんだけれど、なんだか一緒にいて安心する人。なんだか全てを知っているような感じの人。一緒にいるだけで問題が解決してしまったかのように思えてしまう人。

実は私のパートナーさんてそういう人なんですよね。

会社の誰もが頼りにしてて、とにかく酒の席に呼ばれまくる(ガチで酒好きなのはある意味問題なんですけどね!)。一緒に飲んでると笑いしか起きなくて、まともなことは殆ど言わない。だけど、時々確信めいたことをポロッと言うのです。

私の悩みなんて彼にとったら「暇だね~」とか「どうでもいい」の一言で交わされてしまうのだけど、よくよく考えると確かにその通りで。気付いたら大笑いして終わり。

きっと、あのワガママボディのおっさんのように、本当は私の生きている小さい箱からはとっくのとうに飛び出していて、ひとつ上のフェーズ(段階)にいるんだろうなぁと最近はそんな風に思います。

ワガママボディもそっくりですが、いつもありがたいなぁと感謝しています。

最後にノロケてしまいました~(*°∀°)♡

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